4月5日に82歳で永眠した
1935年に三重県で生まれた高畑は、東京大学仏文学科を卒業後、東映動画(現:東映アニメーション)に入社し、演出助手などを経て「
宮崎とスタジオジブリの代表取締役プロデューサーである
お別れの会は委員長を務める宮崎の開会の辞から開始。高畑のあだ名である“パクさん”の由来を語ったあと、「パクさんは95歳まで生きると思い込んでいた」と述べる。医者から「友達なら高畑さんのたばこをやめさせなさい」と言われたことがあったそうで、鈴木とともに説得に向かったこともあった。「弁解や反論が怒涛のように吹き出てくるかと思ったが、パクさんは『ありがとうございます。やめます』とキッパリ言って頭を下げた。そして本当にたばこをやめてしまった。僕はわざとパクさんのそばへたばこを吸いに行った。『いい匂いだと思うよ。でも全然吸いたくなくなった』とパクさん。彼のほうが役者が上だったのであった。やっぱり95歳まで生きる人だなと本気で思いました」と振り返る。そのほか東映動画時代に初めて会ったときのことや労働運動が盛んだった頃のエピソード、また「太陽の王子 ホルスの大冒険」制作時の思い出を涙ながらに話した。弔辞は宮崎がひと月かけて考えたもので、予行演習の際にもたびたび涙を流していたという。こちらの詳細は速報レポート記事で確認してほしい。
続いて「太陽の王子 ホルスの大冒険」で作画監督、その後も数々の高畑作品に参加したアニメーターの
高畑がプロデュースした「風の谷のナウシカ」以来の付き合いである
お別れ会終了後には「ホーホケキョ・となりの山田くん」で俳句の朗読を行った
また「僕と高畑さんは最後まで監督とプロデューサーという立場で40年間やってきた」と語る鈴木は、「いい思い出より対立した思い出のほうが多いんです」と顔をほころばせる。鈴木が直接関わっていない「じゃりン子チエ」の頃は毎日のように相談を受けていたそうで「あの経験が今のプロデューサー仕事に生きてます。一緒にやった作品は全部覚えてます。毎回、いろんな議論、闘いがありました。いい距離感というよりお互い土足で(笑)」と回想。「火垂るの墓」では劇場公開のため上映時間を5分カットする役割を担い、「平成狸合戦ぽんぽこ」では進行を遅らせる高畑のために公開時期を早めた特製ポスターを作り制作を急かしたという。「40年間も付き合ってきたけど、一度も緊張の糸を途切らせたことがない。ずっとこの関係を続けていると高畑さんが体のどこかにすみ着くんです」と続けた。また高畑は生前「平家物語」の企画の実現を願っていたという。
「高畑 勲 お別れの会」午前の部には、そのほか
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高畑勲お別れ会に山田洋次、大塚康生、富野由悠季、久石譲、押井守ら3200人(写真32枚) - 映画ナタリー https://t.co/j4jH64pYV2